歌舞伎に打ち込み続けてきた坂東玉三郎、その美しい姿勢とは
歌舞伎界で女形として活躍され続けている五代目・坂東玉三郎さん。そんな坂東さんは梨園の生まれではなく、子供の頃に患った小児麻痺のリハビリとして習った舞踊に魅力を感じてそこから歌舞伎の世界へと進んで行かれています。
歌舞伎の世界は親から子へ受け継がれていくという印象が強い中で、たくさんの方々に支持され続けている坂東さんは大事なのは血のつながりだけではなく理解し合える存在が大事だということを語っています。
そんな坂東さんは、これまでどのような生活を送って来られたのでしょうか。その半生を探ってみましょう。
1950年に東京都で料亭の息子として生まれた坂東さんは、小児麻痺を患うなど体が弱かったため病院や治療を受けたことが記憶に残っているという。実家の料亭には芸者さんたちが出入りしていたため、そこから自然と舞踊を踊るようになっていきます。
幼稚園は1日で辞めてしまい、そこで藤間勘紫恵さんに日本舞踊を習い始めました。藤間さんは歌舞伎俳優である十四代目守田勘弥さんの奥様。そこから部屋子となって、初舞台を踏むこととなります。初舞台は7歳の頃で、25日間の興行に非常に喜びがあった様子です。
14歳で守田勘弥さんの芸養子となり、株機材で「心中刃は氷の朔日」で五代目坂東玉三郎を襲名することとなります。
実の両親の元から離れ、本格的に稽古や習い事が厳しくなっていき養父母からは役者としてのアドバイスが細かな部分まで行われてそれを学んでいくというようなこともあったそうです。
坂東さんは身長が170cm以上ということで、女形として演じる際には工夫が必要でした。その際には膝を折ることで相手に合わせるようにするなどという方法を取られていたそうです。
10代後半からは大きな役を任されるようになり、その美しさも見込まれていきます。芸術選奨新人賞を受けて更に有名となり、チケットを取るのも困難なほどになっていきます。また、人気は国内だけではなく国外にも轟き、女形の最高位とされている立女形へ。
若い時からあまりの忙しさに心身の不調を繰り返しており、それは年齢を重ねても時々出てきてしまうようです。そのため、不調が続く際には休みを取って旅行をしたり別のお仕事に取り組んでみるなどする期間を設けるようにされています。
本人が仰っている通り肉体的によりも精神的に神経を張り詰めた状態をずっとは続けられないというのは頷けます。
そんなことを仰っている坂東さんですが、普段の生活や歌舞伎の衣装を作る際のこだわりが強く歌舞伎への情熱がそこかしこに見えてしまいます。
舞台では40キロ近い衣装を身に付けることもあるという坂東さんは、すでに肉体的に限界が来ていると告白します。それでも、舞台では凛とした姿を見せるプロとしての意識。
自分が好きなものを続けてきて、流れに逆らわずに生きて今がある……その生き方には目を見張るものがあります。
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